苫野先生座談会開催によせて vol.1

「本質と存在の融合が最高度に実現されるのは、まさに愛を通してのみである。」

プラトン

 

5/19(土)教育哲学者の苫野一徳先生を講師にお招きし、

【座談会】「どのような教育がよい教育か」を開催しました。

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今回の座談会は二本立て、

まずは「恋愛×哲学」と題し、わたしたちにとっても身近なテーマから“哲学”というものについて考えました。

 

“恋をする”とはどういう事だろうか。“愛”とは一体なんだろうか。

 

 

古くは冒頭に挙げたプラトンの時代から、もっといえば、“愛”という言葉が発声されたその瞬間から、これは我々にとって重要なテーマであったに違いあるまい。

 

苫野先生曰く、恋とはロマンの投影であるという。

人は自と他との実際生活上の交渉を経て、自分が決して絶対者なぞではなく、あらゆる不条理と常に応接している存在なのだと認識する。

そうあればこそ、我々はそうでない世界への憧れを抱き、それぞれにとっての望まるべき生を渇望する。

結果、我々は我々の自己防衛手段として、“ロマン”の世界を描き出す。

 

 

そうして我々の描き出したその甘美な世界は、突如として我々の眼前に提示される。

具象化した美の似姿、その出現によって。

 

我々は竟(つい)に恋に落ちる。。。

 

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はて、では愛するとはどういう事であるか。

 

苫野先生はこういう風に述べている。

愛するという行為とは、“存在意味の合一と絶対分離的尊重の弁証法”である、と。

 

無論ここで言う弁証法(=アウフヘーベン)とは、哲学者ヘーゲルの言うそれである。

テーゼ(命題)とアンチテーゼ(対立命題)との相克、

その相矛盾する部分すらをも包摂しつつ、その本質へと“止揚”(しよう)させること。

ここではそういっておけば足りるだろう。

 

“(自己と他者の)存在意味の合一”と“(自己と他者との)絶対分離的尊重”

この相矛盾するテーゼを、一つの生の中で感(観)ずること。

 

成る程、愛するという行為は、確かにこういう複雑な観念の跳梁(ちょうりょう)によって営まれているのかもしれない。

故に、我々は時に苦しみ、時に、人間存在として至上の幸福を得る。

こういうわけである。

 

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「朝寝髪 われは梳らじ 愛しき 君が手枕 ふれてしものを」

引いたのは、有名な万葉歌である。無論後朝(きぬぎぬ)の切なさを詠ったものなのだが、ここに現れているものといえば、最早自と他との合一にはとどまらない。

男の手の触れたその髪の一本一本を想い、女はその愛に感じ入っている。

そしてそれは、もはや男の愛そのものでは無いことを直知している。

 

後朝の別れという我が国の文学史上に現れたこの美のかたちには、

恋という事、あるいは愛するという事の本質が現れてはいまいか。

 

アリストテレス曰く、恋とは狂気であるという。

その狂気を通じて、我々は美の本質に触ればやとする。或いは、美というものの持つその力によってそう動かされる事を強いられている(もっともそれは同じことだが)。

 

後朝の別れ。そこに残るものと言えば、その情感の機微なることと、ある男を待つ一人の女がいるというその事実それだけである。

 

思惟するところには、その本質めいたものが浮かび上がる。

だが、本質を観ずるのは我々自身であり、その思想を感得するのは我々自身の手によってでなければなににもなるまい。

 

髪を梳かすまいとする女の気持ちに打たれるところに、愛の本質はあるのだと思う。

尊重を言うまでもなく、我々はその事実として、分離(わかれ)ている。

 

それでも、その分離(わかれた)ものの、一つなることを願うもまた我々の愛に他ならぬではないか。

 

我々は定式化された法によって愛を知るのではない。

恋愛という事情について、男も女も明瞭な意識なぞは決してもってはいないだろう。それでいて何故に二人の邂逅する場所にはいつものっぴきならない確定した運動があるのか。

 

我々は我々自身の行為から問われている。

愛とは何かと。

 

 

文 岡田光輝

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

苫野先生座談会開催によせて vol.2

「唯物史観が、現実の観念論的解釈の虚を突いたのは正しかった。しかし、人間に関するいかなる真理も、不安定な人間の手によって扱われざるを得ない以上、虚偽からそう遠いものではない。他人の考えに従って考えるのは易しく、自分の眼によって見るのが難しいのは、いつの世でも変わりないのであろう。(中略)ある時期の、ある集団の客観的現実を反映するイデオロギーと言う機械的な必然性がこれにとって代わったのである。」

小林秀雄『感想』

 

先日(19日)開催しました苫野一徳先生による座談会。

前回の記事では、メインの座談会の前段として行った“恋愛×哲学”について考えてみました。

今回は、vol.2と題して、本座談会のテーマでもあった、“どのような教育がよい教育か”について考えていきたいと思います。

 

 

 

苫野先生は現状の教育をとりまく問題として、以下のような点を挙げている。

「教育学は、“理想主義”“相対主義”“規範主義”という教育思想の信念対立に陥っている」と。

 

これについてここで詳しく述べることはしないが、こうした思想のいずれもが、我々人間が本質的に何を求め、如何に生きるかという所と、無関係に唱えられてきたであろう事については言うまでもなかろう。

 

対して氏は、よい教育の条件をこう定義する。

「すべての子供たちが、生きたいように生きられること」と。

 

氏のこうした考え方の背景には、哲学者ヘーゲルの“自由”に関する思想がある。

 

「我々人間は自由への渇望を抱いている。」

ヘーゲルの言うそれは、彼の類まれな観察眼と、異様なまでに徹底した分析の才による。

我々は人間とは何か。徹底的に問うたところにそれは生まれた。

 

 

自由を相互に承認すること。

それが如何に困難なことであったかについては、我々の歴史が証左である。

 

それを解決せんとしたのが哲学であり、そこから生まれた法であった。

それが我々の知恵であった。

 

だが、それがあくまで“法”である以上、それを我々の法とするための“感度”(感性)を、“力”を育まねばならない。

故に、氏は言う。そこで必要になるのが“教育”であると。

人類が生み出した法という知恵を、現実のものとするために。

 

 

既記の通り、教育学を取り巻く現在の状況は、そのような理想を目指す道程からは、乖離しているところがある。

点数を学力の尺度とし、それをエビデンス(根拠)とする教育政策が進められている。

それが果たして“よいこと”なのかという問いのすっぽりと欠如したままに。

 

それの是非については問うまい。

我々が問わねばならないのは、それ自体十分に問われた上でのことなのかという点である。

 

哲学の本質は、問うという行為そのものにある。

理想主義者だろうが、相対主義者だろうが、ism(主義)と名のつくところには、問うという行為が欠けている。

 

偉大な思想家とは、如何なる意味においても決して“主義者”なぞではなかった筈だ。

問うて問うて、それでも疑いきれぬところを信じた。あるいは信じざるを得なかった。(尤もそれは同じことだが。)そういう人間であったのであるまいか。

 

「あらゆる天才は恐ろしい柔軟性をもつて、世のあらゆる範型の理智を、情熱を、その生命の理論の中にたたき込む。勿論、彼の錬金の坩堝に中世錬金術師の詐術はない。彼は正銘の金を得る。ところが、彼は、自身の坩堝から取り出した黄金に、何者か未知の陰影を読む。この印影こそ彼の宿命の表象なのだ。この時、彼の眼は、痴呆の如く、夢遊病者の如く見開かれていなかればならない。何故なら、彼の宿命の顔を確認しようとする時、彼の美神は逃走して了まふから。芸術家の脳中に、宿命が侵入するのは、必ず、頭蓋骨の背後よりだ。宿命の尖端が生命の理論と交錯するのは、必ず無意識に於いてだ。この無意識を唯一の契點として、彼は「絶対」に参与するのである。見給え、あらゆる大芸術家が「絶対」を遇するに如何に慇懃であったか。「絶対」に譲歩するに如何に巧妙であつたか。」

小林秀雄『ランボオⅠ』

 

信念の衝突という問題の解消には、我々が信念なるものを持つことの如何に困難たるかをしっておけばそれで足りる。

そして教育というthemeを扱う者は、その困難と向き合わねばなるまい。

 

絶対なるもの、その信念を抱くに、我々は如何に真摯たれるか。

 

「現代人は、既に習俗化し内的生命を失った現実主義思想に取り憑かれて苦しんでいる。」

 

思想を、あるいは絶対をつかもうとする行為。それは我々が我々の手によって、非常な忍耐を持ってなさねばならぬ労働である。

自らの眼で観る事だ。

頭蓋骨の背後より、己の宿命の来たるその瞬間まで。

 

文 岡田光輝

 

 

 

 

 

 

 

 

【座談会】“目標を持ち続けるということ〜トレイルランナーの挑戦〜”開催します!

夢は見るものではなく、叶えるもの

今回の座談会はトレイルランナーとしてご活躍の斎藤綾乃さんを講師にお招きし、ご自身の経験から、目標を持つことや、夢を叶えることについてお話をいただきます。

飛び抜けて足が速かった訳ではないという斎藤さん。それでも、「こうなりたい」という目標を持ち続けて取り組んだきたことは、ひとつの形として実を結びました。
もっと強くなりたい。その想いを胸に、ひたむきに自らの限界と戦い続ける斎藤さんのお話を是非お聞きください!

日時 5月26日(土)
時間 19時より1時間半程度
場所 あこ(JA土佐れいほく田井支所横)

※事前登録不要,参加費無料
※当日はいしはらの里への遠隔配信も予定しております。
※キッズルーム(土佐町立図書館ホール)もございます。お子様連れのお客様もお気軽におこしください。

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【座談会】“デザインのミカタ”開催しました!

“心を操ろうとしても、操るものはやはり心なのである。「心自ラ心ヲ操ル。ソノ勢、能ク久シカランヤ」「我ガ心ヲ以テ、我ガ心ヲ治ム。譬ヘバ狂者自ラソノ狂ヲ治ムルガ如シ」、これは人間には出来ない事だ。どうしても格物という事、物が来たり、至るという事が、心には必要だ。”

小林秀雄『物』

 

4月20日、【座談会】“デザインのミカタ〜「デザイン」することは難しいことじゃない!〜”を開催しました。

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前ソニークリエイティブセンター統括部長で、現在香川大学教授の大場晴夫先生をお招きしました今回の座談会。これまでソニーという場で、まさにデザインを“実践”されてきた大場さんから、“デザインのミカタ”について様々な視点からお話をいただきました。

大場さんがこれまでソニーで手がけられてきた製品には、まさにそのデザイン性というものが詰まっています。それはなにもその意匠(いしょう)のみが肝要(かんよう)であるわけではありません。それを使うものの行動もまたデザインし得る、そういうものばかりなのです。
たとえば、日常の起居(ききょ)に至るまでを収録する音声レコーダー。これは製品化にこそ至らなかったものの、まさにその“デザイン”が、わたしたちの行動を、或いはその未来の姿を、デザインすることに直結するようなものでありました。
「デザインは、進みすぎた技術を生活に紐づけてやるという事でもある。」
近年UX(user experience)の重要性が言われます。
有用な技術を、いかにしてわたしたちの生活や体験のなかに紡ぎ直すか。
そこには“デザイン”の力が当然入用になってくるというわけです。
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“人間の認知とデザイン”
そこにはこんな関係があると大場さんはおっしゃいます。
「人間の行動というものは常に、脳(意識)がその判断を下すよりも僅かに先行しているものである」と。
つまるところ、それはデザインや物の意匠それ自体が、我々の行動を直截(ちょくせつ)に規定し得るという事でもある。
我々が物に応接するところには認識がある。
その認識の源泉は、我々自身であるか、或いは物それ自体にあるか。
これは大変困難な問題であります。
そしてそこには、否、そこにこそ、“デザイン”という行為の本質があるのでしょう。
技術(あるいは自然)という剥き出しの得体の知れぬものに処し、それに好むと好まざるとの関係を付してやること、
それは物に対して一つの解釈を与えることであると同時に、物そのものとの直截の交渉を演ずるという事でもある。
物が物たるというその具体性と常に接近していなければ、如何なる意匠もまた、実存を持たぬ単なる観念に過ぎまい。
デザインとは、概念と法則とを求むるに性急な今日の思想とは毫(ごう)も関係のないところにある。
大場さんの仰る「デザインは問題解決である」という定義もまた、そこに思いを致さねばどのような意味も成すまい。
物がある。本来そこにはその具体性を除いては何ものも存在し得ぬ。
あるとすれば、それは我々が自ずから付した解釈という観念があるだけだ。
デザインはそこに何かを付記してやる事であろうか。
いや、無論それだけではあるまい。寧ろ物をその物自体の具体性というところにそっくり還してやることではあるまいか。
我に来たる物を収め、我が有とする。
徂徠曰く、“物とは教えの条件”である。
デザインという行為。それは既知のものの編成替えでも、目的地への計画的な接近でもない。それは我々もよく知る実際上の生活そのものを指す。
はて、そう言っては言葉が過ぎるだろうか。
(文 岡田光輝)

 

 

【座談会】苫野一徳先生「どのような教育が『よい』教育か」開催します!

5月19日(土)19時より、熊本大学教育学部准教授の苫野一徳先生を講師にお招きし、【座談会】「どのような教育が『よい』教育か」を開催します。

今回のテーマは「教育」。教育哲学者である苫野先生より、「よい教育」とは何かについてお話をいただきます。

「よい大学」に入り、大企業に就職する。そんなひとつの成功モデルが問い直されている現代にあって、教育は如何にあるべきか。今回の座談会を通じて是非考えてはみませんか?

詳細は、以下facebookページからご確認ください。

【座談会】苫野一徳先生「どのような教育が『よい』教育か」

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また、緊急企画として、同日18時より同時開催「恋愛×哲学について語る会」を開催します。恋愛と哲学と言えば、古くはプラトンの『パイドロス』や、近代ではあのニーチェの大失恋談などなど、多くの逸話が残っています。

一見難しそうな「哲学」と、わたしたちにも身近な「恋愛」。

「どうして人は恋におちるのか?」

哲学的に考えてはみませんか?

こちらも併せてお気軽にご参加ください。

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土佐町で日本の教育の未来を考え“飲んで”語り合う合宿 開催します!

7月28日と29日の二日間、“土佐町で日本の教育の未来を考え“飲んで”語り合う合宿”を開催します。

今冬、土佐町に全国から教育関係者が集い、開催されましたこの“合宿”

この度、再び夏に開催させていただく運びとなりました!

棚田や、清流など夏も魅力たっぷりの土佐町で、是非“飲んで”語り合いましょう〜

詳細は以下よりご確認くださいませ!

※ご参加を希望される方は、下記リンクより申込書をダウンロードいただき、FAXにてお申し込みをお願い致します。

合宿参加申込書

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【座談会】デザインのミカタ「デザイン」することは難しいことじゃない! を開催します。

4月20日(金)は、『デザインのミカタ「デザイン」することは難しいことじゃない!』と題し、香川大学教授(前ソニークリエイティブセンター統括部長)の大場晴夫先生を講師にお招きし、座談会を開催いたします。

 

わたしたちは、「デザイン」と聞くと紙の上のイラストや文章の位置を考える平面的な作業のことを思い浮かべてしまいます。しかし、実際には「空間」や「行動」のデザインもあります。例えばソニーはウォークマンの開発によって「音楽を屋外に持ち出す」という行動をデザインしました。

そんな日常に潜むデザインを見つけて、考え、

「デザインのまなざし」を養ってみませんか?

 

場所 :あこ(JA土佐れいほく 田井支所横)※いしはらの里への遠隔配信も実施します。

時間:19時〜20時30分

※事前登録、参加費等は不要です。どなたさまでもご参加いただけます。

※キッズルームをご用意しております。(場所:土佐町立図書館内ホール,あこより国道沿い徒歩1分。手前の入り口よりお入りください。)

その他お問い合わせ等ございましたら下記までご連絡ください。

0887-72-9307

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【座談会】“がちかん”開催しました!

「この人間のタイプは昔から何一つ創り出したことはない。美しい詩も深い思想も、有用の道具もそういうものを創り出すに必要な長い観察も、工夫も、労働も、彼は知らない。不思議な人間のタイプです。常に管理したり、 支配したりしているんです。デモクラシイ政治になっても、その点、同じことです。」

小林秀雄『政治家』

 

3/20(火)は、【座談会】“がちかん〜「ガチ」で「環」境問題を話して学んで遊ぶディベートゲーム〜”を開催しました。

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今回の講師は、ゲーム“がちかん”を開発された瀬戸繭美先生。

現在、奈良女子大学の助教をお勤めになられ、生物と環境相互の関係と、そこで生じる物質フローの変化などについて研究をされています。

 

といっても、なにがなにやらわからぬのが研究の世界。

“環境”という、本来わたしたちの生活に直結している筈のものが、遠く離れた世界の産物となっていては、いかにも不都合な事になりましょう。そんな思いからこの“がちかん”もまた生まれたのです。

 

さて、まずは実際にあそんでみようという事で、ルール説明も交えながら参加者みんなでプレイしてみます。

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テーブルを囲む4人全員が「為政者」の立場になってプレイするのが、このゲームの特徴。開発と、環境保全という二択を自分のターンごとに進め、最終的なポイントの差で勝敗を決します。

開発は得られるポイントも大きいが、当然その他の問題を誘発するリスク(ひとたび問題が起きると、その問題に準じたポイントを失う。)をも高めてしまう。それは必ずしも環境問題それ自体と相関のあるものばかりではなく、支持率の低下や、地震、津波といった“想定外”のリスクも含まれます。

そうして起こった問題に対して、“他国”と話し合いながら、そのダメージを判定していくわけですが、そこでの弁明や、追求が必ずしも整合性のとれたものである必要はありません。如何に他を納得させる答弁ができるか、このゲームではそんな資質も実は問われているのです。

 

 

既記の通り、「環境」をとりまく問題の多くは、それを論ずるにはあまりに専門性が高く、わたしたちが容易に考えられるものばかりではありません。と同時に、そうであるがゆえに、時にバイアスの過分にかかった言論が生まれ、それに誘発される形で生じた不毛な論争が、これまで如何に多くあったかについては、最早言うまでもないでしょう。

 

それを追求する者も、弁明を行う者も、最早その専門性という意味において埒外(らちがい)に置かれたなかにあっては、いずれ生まれるものとは、不毛な論争以上のものにはなりますまい。

環境問題それ自体についての理解を深める事の緊要(きんよう)である事もさることながら、「環境問題」というものが、如何にして生まれ、如何にして語られているかを知ること、このゲームが問うている事の意味には大きなものがあるのです。

 

アリストテレスいわく、政治(学)とは、市民が最高善を目指すための実践である。

だが、近代以降、その合理的、科学的精神により実践された政治は、必ずしもそのようなものとはならなかった。

小林秀雄は、『政治家』のなかで、パフォーマンスに執心するさる大臣を評して、こう述べる。「(政治は)ひとつの能率的な技術となった方がいい」と。

 

その真意にはこういう逆説めいたところがあるだろう。近代の為政者(無論「政治家」のみならず我々も含め)は、政治という怪物、歴史というものの持つその宿命的な一箇の運動に対して、あまりに“敬虔さ”が足りぬと。

 

専門性がなかったとして、我々には実際生活の中で得た経験という常識がある。無論、経験を盲信すれば、また偏見に陥ることもあるだろう。だが、その経験に忍耐を持って処し、注意深く観察するところには、十分にそういう陥穽(かんせい)を避けるだけの能力を我々は有している筈である。

 

無論、考える事それ自体を放擲(ほうてき)してしまうわけにはいかない。

必要なのは、その考えるという行為が、我々にとって如何に困難であるかを知る事だ。

 

雄弁に語る(Rhētorikē)ところになぞ、多くのものは生まれまい。

対話する(dialektikē)ことだ、親愛なる友と、あるいは自分自身と。

 

 

(文 岡田光輝)

 

【座談会】がちかん 〜「がち」で「環」境問題を話して学んで遊ぶディベートゲーム〜 開催のお知らせ

3月22日(火)

現在奈良女子大学の助教で、ゲーム「がちかん」の考案者である、瀬戸繭美先生をお招きし、座談会を開催します。

 

「がちかん」は、遊びを通して環境問題について「がち」で考え、ディベートの楽しみを感じる事を目的としたゲームです。

当日はみんなでゲームを楽しみながら、自然に学び、さらにコミュニケーション能力をみがくことを目指し、皆で考える他、このゲームが生まれたきっかけや遊びと学びの関係についてもお話をいただく予定です。

 

日時3/20(火)18:30~20:30

場所“あこ”(土佐れいほく農協田井支所横)

※事前登録無し、参加費無料のイベントです。どなた様もお気軽にご参加下さい。

当日はキッズルームをご用意しております。ご利用をご検討の方は、SOMA(0887-72-9307)までお問い合わせください。

 

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副代表鈴木大裕のインタビュー記事が集英社新書プラスに掲載中です。

SOMA副代表鈴木大裕のインタビュー記事が集英社新書プラスに掲載中です。

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鈴木の現在に至るまでの道程、

そして今土佐町で何を考え、何をなすべきと考えているか。

 

いつも通りの鈴木節で、「教育と幸せ」について語ります。

想いのたくさん詰まった記事です、是非ご一読くださいませ。

 

集英社新書プラス-プラスインタビュー-

高知県の限界集落で考える「教育と幸せ」【前編】

高知県の限界集落で考える「教育と幸せ」【後編】