【座談会】“デザインのミカタ”開催しました!

“心を操ろうとしても、操るものはやはり心なのである。「心自ラ心ヲ操ル。ソノ勢、能ク久シカランヤ」「我ガ心ヲ以テ、我ガ心ヲ治ム。譬ヘバ狂者自ラソノ狂ヲ治ムルガ如シ」、これは人間には出来ない事だ。どうしても格物という事、物が来たり、至るという事が、心には必要だ。”

小林秀雄『物』

 

4月20日、【座談会】“デザインのミカタ〜「デザイン」することは難しいことじゃない!〜”を開催しました。

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前ソニークリエイティブセンター統括部長で、現在香川大学教授の大場晴夫先生をお招きしました今回の座談会。これまでソニーという場で、まさにデザインを“実践”されてきた大場さんから、“デザインのミカタ”について様々な視点からお話をいただきました。

大場さんがこれまでソニーで手がけられてきた製品には、まさにそのデザイン性というものが詰まっています。それはなにもその意匠(いしょう)のみが肝要(かんよう)であるわけではありません。それを使うものの行動もまたデザインし得る、そういうものばかりなのです。
たとえば、日常の起居(ききょ)に至るまでを収録する音声レコーダー。これは製品化にこそ至らなかったものの、まさにその“デザイン”が、わたしたちの行動を、或いはその未来の姿を、デザインすることに直結するようなものでありました。
「デザインは、進みすぎた技術を生活に紐づけてやるという事でもある。」
近年UX(user experience)の重要性が言われます。
有用な技術を、いかにしてわたしたちの生活や体験のなかに紡ぎ直すか。
そこには“デザイン”の力が当然入用になってくるというわけです。
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“人間の認知とデザイン”
そこにはこんな関係があると大場さんはおっしゃいます。
「人間の行動というものは常に、脳(意識)がその判断を下すよりも僅かに先行しているものである」と。
つまるところ、それはデザインや物の意匠それ自体が、我々の行動を直截(ちょくせつ)に規定し得るという事でもある。
我々が物に応接するところには認識がある。
その認識の源泉は、我々自身であるか、或いは物それ自体にあるか。
これは大変困難な問題であります。
そしてそこには、否、そこにこそ、“デザイン”という行為の本質があるのでしょう。
技術(あるいは自然)という剥き出しの得体の知れぬものに処し、それに好むと好まざるとの関係を付してやること、
それは物に対して一つの解釈を与えることであると同時に、物そのものとの直截の交渉を演ずるという事でもある。
物が物たるというその具体性と常に接近していなければ、如何なる意匠もまた、実存を持たぬ単なる観念に過ぎまい。
デザインとは、概念と法則とを求むるに性急な今日の思想とは毫(ごう)も関係のないところにある。
大場さんの仰る「デザインは問題解決である」という定義もまた、そこに思いを致さねばどのような意味も成すまい。
物がある。本来そこにはその具体性を除いては何ものも存在し得ぬ。
あるとすれば、それは我々が自ずから付した解釈という観念があるだけだ。
デザインはそこに何かを付記してやる事であろうか。
いや、無論それだけではあるまい。寧ろ物をその物自体の具体性というところにそっくり還してやることではあるまいか。
我に来たる物を収め、我が有とする。
徂徠曰く、“物とは教えの条件”である。
デザインという行為。それは既知のものの編成替えでも、目的地への計画的な接近でもない。それは我々もよく知る実際上の生活そのものを指す。
はて、そう言っては言葉が過ぎるだろうか。
(文 岡田光輝)