小国士朗さん座談会 “注文をまちがえる料理店”

“今では女房子供持ち 思えば遠く来たもんだ 此の先まだまだ何時までか 生きてゆくのであろうけど
生きてゆくのであろうけど 遠く経て来た日や夜の あんまりこんなにこいしゅうては なんだか自信が持てないよ
さりとて生きてゆく限り 結局我ン張る僕の性質 と思えばなんだか我ながら いたわしいよなものですよ
考えてみればそれはまあ 結局我ン張るのだとして 昔恋しい時もあり そしてどうにかやってはゆくのでしょう
考えてみれば簡単だ 畢竟意志の問題だ なんとかやるより仕方もないやりさえすればよいのだと”
中原中也『頑是ない歌』

 

12月5日(火曜日)

小国士郎さんをお迎えしての座談会「世界に広がれてへぺろの輪“注文を間違える料理店”」を開催しました。

IMG_2489

 

小国さんはNHKでディレクターとして勤務しながら、今話題の“注文を間違える料理店”の発起人をつとめられた方です。

今回はご自身のキャリアから、その形成についてお話をいただくとともに、注文を間違える料理店のコンセプトや、そこに生まれたものなどについてお話をいただきました。

 

まず小国さんがお話になられたのが、“はみ出しのススメ”について。

小国さんは、ディレクターとしても然ることながら、NHKの持つコンテンツ力を多くの人に伝えるべく、NHKの中で様々な取り組みを実践されています。

 

たとえばそのひとつが、NHK1.5ch

これは、NHKの持つ番組の豊富なコンテンツ力を、いかに多くの人たちに知ってもらうかという観点から生まれたものだそうで、

テレビを見ないと云われる若い世代層へ向けて、その感性に訴えかけるようなコンテンツが多数用意されています。

スクリーンショット 2017-12-18 15.40.01.png

 

そしてもうひとつ、小国さんの考案したコンテンツが、プロフェッショナル私の流儀

スクリーンショット 2017-12-18 15.43.48.png

これは、大人気番組プロフェッショナル仕事の流儀風の動画を、だれでも簡単に作成できるというアプリで、これもまた、この番組をもっと若い世代にも楽しんでもらいたいという意図から生まれたそうです。

 

こうした小国さんの取り組みに共通すること、

それは、その番組や、コンテンツを実際に享受する人のところにまで“降りてゆく”という事ではなかろうかと思います。

なにを伝えるかという事の本質には、受け手にとってなにが本当に求められているのかという事がある。

そこから始めなければ、なにも伝わりはしない。

そういう事が語られているように思えます。

 

 

さて、本題の“注文をまちがえる料理店”

これもまた、そうした考えの中からしか、生まれ得ぬものがあったのでありましょう。

 

注文をまちがえる料理店は、認知症の方がウェイターをつとめるレストラン。

たとえ注文と違ったものが来ようとも、みなそれを笑って許してしまう。

そういう場所。

 

何か病気を抱えていようと、障害があろうと、

そこに差異を生じせしめるのは、わたしたちがそういう認識で以てこの世界を眺めているからにすぎまい。

 

さまざまな人間がただその場にある。

そういう空間を空想してみるならば、それは単なる事実の描写でしかない。

 

そこに流れる空気は、雰囲気は、

はてどういうものであったろうか。

 

 

なにも、理想論や綺麗事を並べたいわけではありませぬ。

 

もしそういう空間を、たとえ人為的にであったとしても、

それをつくってみたならば、そこには全体なにが生まれるであろうか。

こういう一つの問いに他ならぬのであります。

 

小国さんがおっしゃっておられたのは、

この“あこ”という場の持つ雰囲気は、注文をまちがえる料理店に流れていた空気とどこか似ていたという事

IMG_2502.JPG

(大人も子供も一緒に学びます。奥には自習する学生の姿も。)

 

 

わたしたちは生まれてからしばらく経つと、この世における自と他の存在を弁別する。

その人間の認識の端緒というべき瞬間に、失われるもののいかに多いかについて考えるとき、私はいかにも目眩のするのを感ずる。

 

なにが同じであり、なにが異なるものであるか。

わたしたちの悟性(ごせい)の形式が命ずるその宿命について、

それをまたそうでないと、

自と他とは同一であると認識するのも、わたしたちの感性の形式に他なるまい…

 

 

今回の座談会、土佐町社会福祉協議会の協力もあり、下は生後1ヶ月から、上は86歳の方に至るまで、幅広い年代の方にご参加をいただきました。

 

 

“あこ”という場所

その場を領するものは、はてなんだろうか。

 

無論、老いも若きもありますまい。

 

老いとはなんだろうか、

それは積み重なった事実とその感慨、

それだけでありましょう。

 

“思えば遠くへ来たもんだ”

 

 

そういう感慨を噛みしめることのできる場、

だが、それは終点ではあるまい。

 

はて、わたしたちは、そこから何を始めようか。

 

 

(文 岡田光輝)